人の記憶というものは、年月とともに美化されたり、大げさに捉えられたりするものであったりする。
「あの日は暑かった」、「寒かった」、「風の強い日だった」も、そうかもしれません。
「あの日は暑かった」、「寒かった」、「風の強い日だった」も、そうかもしれません。
しかし1月17日。間違いなく9800人あまりが犠牲になった阪神淡路大震災はありました。
あの年の冬は今年ぐらい雪があり、今の施設が開くのを待つ待機まちで入院していた山形の病院もボロで、サッシ戸から隙間風が入るような6人部屋の病室で、持込していたテレビから、この震災のニュースを食い入るように見たのは、先日のように覚えています。
とある医師が、目の前にいる自分の担当だったおじいさんが肺炎になり、治療する薬も設備もなくて隣町に搬送したら亡くなったり、それでも復興のシンボルとしてやらせてあげたいと、春の選抜高校野球の開催にこぎつけたあの大会。
ジャイアント馬場さんもボランティアとして歩いた、みんながみんな「伊達直人」だったあの時でしたな。
とある医師が、目の前にいる自分の担当だったおじいさんが肺炎になり、治療する薬も設備もなくて隣町に搬送したら亡くなったり、それでも復興のシンボルとしてやらせてあげたいと、春の選抜高校野球の開催にこぎつけたあの大会。
ジャイアント馬場さんもボランティアとして歩いた、みんながみんな「伊達直人」だったあの時でしたな。
変わらないのは、今も昔も、いざというときは国は何もしてくれないということ。あのときより財政の厳しい今日に、このような都市型震災が起きたら、真っ先に国は動くはずがありませんな。
やはり頼れるのは日ごろのご近所ということになるのでしょうか。おいらは今年も、プログを通じ人とのつながりを考えたいと思いますな。
やはり頼れるのは日ごろのご近所ということになるのでしょうか。おいらは今年も、プログを通じ人とのつながりを考えたいと思いますな。