夜だるま昆布長の、カウントギリギリ!(;゚д゚)(つд⊂)

Yahoo!ブログより移籍いたしました、夜だるま昆布長と申します。自身障がい者で、施設に通所しながら、日々アビリンピックの練習や、個人新聞を製作しています。Officeむいんぐ代表。林家木久扇名付け人です。山形県鶴岡市。

ありがとう、先生

 いろいろな方から頂いた年賀状を確認していたところ、いつも送られてくる恩師からの年賀がないことに気付く。

 ポストを確認したところ、「喪中ハガキ」が入っておりまして、先月に亡くなられたとのこと。79歳とあり、傘寿前という何とも悔やまれます。

 先生は30数年前、小学校2.3年生に担任をしていただきました。養護学校という、普通なら「少子化で生徒減少」というのとは違い、ハンデを持っても地元の学校に病気が回復すれば転校できたり、ハンデを持っても学校側が受け入れて入学できたりというものなのですが、特に印象的なのが小学校3年生のころ。

 みんな退院(当時はぜんそくや、じん炎で入院している生徒がほとんど)し、ぜんそくの野上君(仮名)とおいらの二人きりでした。しかも両親が高校教師と養護教諭サラブレットな家庭の野上君は成績優秀。かたや勉強よりも遊びなおいらは宿題をよく忘れるという対極的な生徒でした。
 そんななか、「予習ドリル頑張り表」みたいなものを作って、何ページやったかを競わせ、年末とか休み前はコピーして、「これだけ2学期は頑張りましたよ」と、父兄に渡して励ましのお言葉をかけていました。

 二人きりなので、野上くんはぜんそく発作が起きれば休み。おいらは当時骨折や自家中毒がよく起きやすかったので、重なると自動的に学級閉鎖になり、「先生暇だからよぉ。学校来てくれよぉ」と、困った顔で毎日面会に来ながら、国語の本を読んで聞かせたり、床上学習をしていただきました。

 一番の思い出は授業です。当時は教室が足りず、「技術・美術室」の半分を仕切ったり、家庭科室を仕切ったりして教室にしていました。
 技術室だったため、中学生が授業するととんかんとんかんまーうるさい。そういう環境でした。
 とくに理科と算数では、天気の良い日は外に出て、「ここから見える車の種類を10分間で難題来るか数え、それを分数にしましょう」とか、周りが田んぼや畑なので一つの農家の畑を見学し、苗の成長や植物観察を生で教えてくれたり、時にはなっているリンゴやイチゴを拝借したり。
 いわゆる、教科書にない、生活の中でのいろんなことを教えてくれました。
 朗読大会や学芸会ではいかんなく活躍され、図工工作では、大工さんから木のキレ恥をもらってきて工作させたりと。
 転勤後に教頭・校長になられましたが、退職後に会いに来られたらしいのですが、私が施設にいて不在だったため、結局会えずじまいでした。

 ゆとり教育というのは本来校ではないかという授業。大きな愛で包んでくれました。
 ご冥福をお祈りいたします。