夜だるま昆布長の、カウントギリギリ!(;゚д゚)(つд⊂)

Yahoo!ブログより移籍いたしました、夜だるま昆布長と申します。自身障がい者で、施設に通所しながら、日々アビリンピックの練習や、個人新聞を製作しています。Officeむいんぐ代表。林家木久扇名付け人です。山形県鶴岡市。

きっと雲仙噴火を忘れない、復興と鐘ヶ江市長・・・

イメージ 1

写真は、アクエリアスについていたキーホルダー。何の数字と思ったら、パウエル選手が走り幅跳びで記録した8m95の「ひも」がはいっていました。(^^;)

『あれから16年。あの年は暑かった記憶が・・・』

 たかびごんさんも一つの経験として残るであろう、雲仙普賢岳の噴火・大火砕流から、16年が経ちました。その間島原市の災害対策課が、ようやくというか、その役目を終えられるそうです。

 44人の犠牲者を出した長崎県雲仙・普賢岳災害(90~96年)の被災地・島原市の災害対策課が30日、最後の業務を迎えた。市の機構改革で7月1日から生活安全課に改称される。92年の災害復興課発足から16年間にわたり、防災の最前線に立ち続けてきたが、市機構から「災害」の文字が消えることになった。
 普賢岳は90年11月、198年ぶりに噴火し、91年6月の大火砕流では地元消防団や報道陣ら43人が亡くなった(93年にも火砕流で1人死亡)。島原市は92年1月、それまでの市民課防災係と企画課被災対策班を統合して災害復興課を発足。99年には災害復興課と防災課を統合して災害対策課とし、被災者の集団移転、市義援金基金の運用、災害記念碑建設などを担当してきた。
 この日は午前10時から生活安全課への辞令交付式があり、平尾明課長(59)は「災害復興課と合わせて8年弱、災害業務に従事し、いろいろな教訓を学んだ。『災害』の文字が外れて平常に戻るのは良いことだと思う」と感慨深げだった。毎日jpより

 火砕流という言葉を知り、昼夜とはず断続的にニュースが入り、髭の当時、鐘ヶ江市長が身の危険を顧みず先頭に立って人道指示していたのが印象に残っています。
 とくに梅雨時であり、火山灰と混じって降る大雨や、噴煙が雲になって降る雨。すし詰めで蒸し風呂状態の記者会見室。自衛隊のヘリが、ぐうぜん見つけた犬も連れて帰ろうとした映像など、こちら山形にいても良く伝わってきました。

 オイラその当時、ニートっぽい生活をしていて、一日中そのニュースを見ていた記憶があります。その島原の鐘ヶ江市長の近況は・・・
 1980年には島原市長に当選、以後1992年までの3期12年務めた。1991年の雲仙普賢岳の噴火・土石流の発生の際は自ら災害救助活動や国への陳情に奔走、その姿はマスコミにも大きく取り上げられ「ヒゲの市長さん」として一躍有名となった。
 市長退任後は普賢岳噴火の際の体験を生かし、全国で講演活動を行っている。2001年には勲四等瑞宝章を受章、2002年からは雲仙岳災害記念館の名誉館長を勤める。 ウィキペティア

 ご実家は旅館を経営していて、西武のキャンプにもなっているそうです。あー、旅館経営が、あーいう「自分よりも先ず市民」という精神を養われた切っ掛けでしょうか。

 課の名称は変われど、あの災害で学んだ教訓を、是非国内はもとより、世界に発信し、災害に負けないしまばらとして胸を張っていいのではないだろうか。そして、なくなられた犠牲者の方にご冥福をお祈りしたい。