台風のせいか、まじめに暑い今日この頃。今晩寝れるのか不安な夜だるま昆布長である。
昨日から今日にかけ、びっくりするニュースや訃報が。九州地方の地震、大丈夫でしたでしょうか。
北海道札幌市出身。北海道札幌南高等学校、東京工業大学工学部情報工学科卒業。
大学在学中、西武百貨店池袋本店のマイコンコーナーの常連客だった岩田は、そのマイコンコーナー店員が立ち上げに関わった「株式会社HAL研究所」(通称ハル研)にアルバイトとして事業に参加[6]。そこでのプログラミングに熱中し、大学卒業後はそのままHAL研究所の正社員となった。その後も、会社の経営再建まではあくまでプログラマとしての立場であり、部署の管理は行っても経営に大きく関わることは無かった。なお、当時のHAL研究所は立ち上がって間もないごく小さなベンチャーであったため岩田の親は聡の進路に反対であり、父岩田弘志とは入社から半年は口を利かなかったという[7]。
大学在学中、西武百貨店池袋本店のマイコンコーナーの常連客だった岩田は、そのマイコンコーナー店員が立ち上げに関わった「株式会社HAL研究所」(通称ハル研)にアルバイトとして事業に参加[6]。そこでのプログラミングに熱中し、大学卒業後はそのままHAL研究所の正社員となった。その後も、会社の経営再建まではあくまでプログラマとしての立場であり、部署の管理は行っても経営に大きく関わることは無かった。なお、当時のHAL研究所は立ち上がって間もないごく小さなベンチャーであったため岩田の親は聡の進路に反対であり、父岩田弘志とは入社から半年は口を利かなかったという[7]。
ファミコン時代には、初期の頃から任天堂に積極的に顔を見せて、『ピンボール』『ゴルフ』や『バルーンファイト』などの任天堂ゲームソフトのプログラミングを担当した。当時の日本には(ファミコンに採用された)6502系CPUでのアセンブラに精通したプログラマが少なく、岩田が慣れ親しんだPETが同じ6502系CPUであったことも大きなアドバンテージであった。特に『バルーンファイト』はアーケード版よりも非常に滑らかな動きを実現し、アーケード版のプログラマだった中郷俊彦(現・SRD社長)が感心して岩田の元へレクチャーを求めて訪れ、それが『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされたエピソードがある。『ドラゴンクエスト』の北米版(『Dragon Warrior』)を任天堂が発売する際にはローカライズを担当した。
その後も任天堂との共同事業は続けられ、これらの親密な交流がHAL研究所経営再建時の任天堂子会社化、そして岩田の任天堂社長就任の遠因となった。なお、任天堂の重役でありゲーム開発の主要人物である宮本茂とは『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の開発において初めて出会った。
2000年、任天堂の山内溥社長(現相談役)に経営手腕を買われて任天堂に入社、取締役経営企画室長に就任。2002年、42歳のときに山内から指名を受け、2002年6月1日付けで代表取締役社長に就任した。任天堂は1889年に山内溥の曽祖父である山内房治郎が創業して以来山内家の同族経営であり、当初次期社長は山内溥の長男の山内克仁か娘婿の荒川実だと思われていたが、他の古参取締役をも押し退けて入社2年目の岩田の大抜擢は異例中の異例であった。なお、会社の方針決定は山内の代とは逆に社長一任ではなく、最重要は取締役会となっている。これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えた山内自身からの提案である。
2014年6月に胆管に腫瘍を患っていたことを公表。手術後静養を経て、10月の経営方針説明会で公の場に再び登場した。体調はいったん持ち直したように見えたが、晩年に再び悪化し2015年7月11日、胆管腫瘍のため死去。同年6月にもアメリカでのイベントに出演していた。海外でも大きく報道された。
それにしても山内前社長が、家業がら血族に任せるのではなく、外部の血を用いて大きく舵を切るぐらい信頼が厚かったのだと思う。