「姫ナース」さんの一日も早いご回復をお祈りします。
その通りで、ただ全会一致が条件らしいのですが。あくまでも一般市民であるため、感情的な部分に流され、死刑が多くならないか懸念する声もあり、今後の課題ですかね。ただ、犯したのも人間なら、裁くのも人間ですからね。
その時、テレビ欄には(終)がずらりと・・・
本題の前に。昨日の光市の母子事件の判決の記事で、「裁判員制度でも死刑判決に立ち会うのですか」という書き込みを頂きました。その通りで、ただ全会一致が条件らしいのですが。あくまでも一般市民であるため、感情的な部分に流され、死刑が多くならないか懸念する声もあり、今後の課題ですかね。ただ、犯したのも人間なら、裁くのも人間ですからね。
(^^;)・アチャー(ノ∀^)・(;゚д゚)(つд⊂)ゴシゴシ
スリングさんの記事で「タモリ倶楽部(テレ朝)」に書きこみして、山形の変を書きました。ここ山形は、たんに「テレビ局開局に伴い、ネットチェンジ」ではないネットチェンジがあった県です。これはながーくなるので、当事者のYTS・山形テレビに絞って書きます。これでも長いのですが、ここはいつものアレを参考に。
山形テレビは1970年に、当時田中角栄郵政大臣の「UHF開放」に伴って出来た、県内2番目の民放。初めに山形市で半年間試験放送をし(UHF普及のため)、よく71年にスタートしました。
※ここ重要。※ 1993年、山形テレビはネットチェンジ(フジテレビ系列からテレビ朝日系列へ鞍替え)という劇的な一変を遂げ、県民に多大な影響を与えている。地上波テレビ局において、近年ではもっとも特殊な事例といえる。
ネットチェンジの直接的な引き金と見られるのが、1989年に開局したエフエム山形とテレビユー山形に対抗すべく実施した新規事業が軒並み失敗したことである。ハリウッド映画『リ・アニメーター2(死霊のしたたり2)』『グランド・ツアー』への出資、「バイオ科学研究所(ダイエット新薬などの開発)」の設立、「クルーガーランド金貨」の発行、ビデオソフトの製作など、さまざまな事業に手を出したものの、軒並み損失を出す結果となり、収益が悪化した。
1992年、山形テレビはフジテレビの猛反発を押し切って1992年9月25日にANNへ加盟申し入れを行う。1993年3月31日、半ば強引にFNN・FNSを退会。フジテレビ系列の番組を全て打ち切り、翌4月1日にANNに正式加盟、秋田朝日放送についで19局目のテレビ朝日系列フルネット局として再スタートした。(融資を願ったところ、フジの放送比率を上げるのが先だろうという理由で。当時、YBC山形放送であふれた日テレも放送していたため、かなり変則的な編成を強いられていた。)
当時、テレビ朝日系列に加盟する理由は視聴者やフジテレビに説明されることはなかった。一説にはテレビ朝日が債務保証したのではないかと言われている。当時「全国4局化政策」に乗って系列局を増やしたかったテレビ朝日側としては、一つのテレビ局を新設するよりも、はるかに安上がりだからである。
騒動が勃発する前年の1991年、山新グループを率いる服部敬雄(天皇と呼ばれていた)が死去したことで、経営に苦しんでいた山形テレビは身動きがとりやすくなり、それでフジテレビ系列を脱退するという「禁じ手」を実行できたのである。一時属していたテレビ朝日系列へのネットチェンジは、(上記の債務保証が条件ならば)当然の選択肢ともいえる。
ただし、ネットチェンジを決定した当時の役員は「クロスネットの解消と株主の意向」と理由を説明している。(フジと日テレが6:4で、「カーグラフィックTV」「徹子の部屋」もはいっていた。ちなみに月9ドラマは日曜昼に放送するなどめちゃくちゃ)
山形テレビは1970年に、当時田中角栄郵政大臣の「UHF開放」に伴って出来た、県内2番目の民放。初めに山形市で半年間試験放送をし(UHF普及のため)、よく71年にスタートしました。
※ここ重要。※ 1993年、山形テレビはネットチェンジ(フジテレビ系列からテレビ朝日系列へ鞍替え)という劇的な一変を遂げ、県民に多大な影響を与えている。地上波テレビ局において、近年ではもっとも特殊な事例といえる。
ネットチェンジの直接的な引き金と見られるのが、1989年に開局したエフエム山形とテレビユー山形に対抗すべく実施した新規事業が軒並み失敗したことである。ハリウッド映画『リ・アニメーター2(死霊のしたたり2)』『グランド・ツアー』への出資、「バイオ科学研究所(ダイエット新薬などの開発)」の設立、「クルーガーランド金貨」の発行、ビデオソフトの製作など、さまざまな事業に手を出したものの、軒並み損失を出す結果となり、収益が悪化した。
1992年、山形テレビはフジテレビの猛反発を押し切って1992年9月25日にANNへ加盟申し入れを行う。1993年3月31日、半ば強引にFNN・FNSを退会。フジテレビ系列の番組を全て打ち切り、翌4月1日にANNに正式加盟、秋田朝日放送についで19局目のテレビ朝日系列フルネット局として再スタートした。(融資を願ったところ、フジの放送比率を上げるのが先だろうという理由で。当時、YBC山形放送であふれた日テレも放送していたため、かなり変則的な編成を強いられていた。)
当時、テレビ朝日系列に加盟する理由は視聴者やフジテレビに説明されることはなかった。一説にはテレビ朝日が債務保証したのではないかと言われている。当時「全国4局化政策」に乗って系列局を増やしたかったテレビ朝日側としては、一つのテレビ局を新設するよりも、はるかに安上がりだからである。
騒動が勃発する前年の1991年、山新グループを率いる服部敬雄(天皇と呼ばれていた)が死去したことで、経営に苦しんでいた山形テレビは身動きがとりやすくなり、それでフジテレビ系列を脱退するという「禁じ手」を実行できたのである。一時属していたテレビ朝日系列へのネットチェンジは、(上記の債務保証が条件ならば)当然の選択肢ともいえる。
ただし、ネットチェンジを決定した当時の役員は「クロスネットの解消と株主の意向」と理由を説明している。(フジと日テレが6:4で、「カーグラフィックTV」「徹子の部屋」もはいっていた。ちなみに月9ドラマは日曜昼に放送するなどめちゃくちゃ)
開局当初は日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)をキー局として一部TBS番組をネットする構想があり、それを前提として朝日新聞・毎日新聞系列の株主が多数存在していた。結局、開局前に株主と経営者間で紛争が生じ、これを調整すべく服部が乗り出して元来関係が乏しかった山新グループに入り、かつ、服部と鹿内信隆・フジテレビ社長との間の個人的な関係もあり、服部の「ツルの一声」でフジ系となったのである。
70年代終盤に毎日系の株式が朝日関係者にわたったため(関西でのネット腸捻転解消も影響している)、同社の株主の多くが朝日系となっていた。彼らが服部の死去をきっかけに「蜂起」し、その突破口が多額の債務だったとすれば、ネットワークが変わってもおかしくはない。それが先述の「株主の意向」のゆえんである。
ネットチェンジを行った1993年3月末日までの新聞のYTSのテレビ欄には、完結していないドラマも含め、(終)マークが並ぶこととなった。(昼のドラマは特例として、東京よりも早く最終回を放送し、2回続けて当日放送した。)
自社製作番組など一部は継続し、(YBCからあふれたため)山形テレビで放送していた日本テレビ系の番組も、NNN単独ネット局となったYBCへ移行。ネットチェンジはYBCの協力もあり、スムーズに遂行された。(YBCはかなり混乱したらしい)
山形県の視聴者にとっては1980年に続く番組編成の激変だったが、山形テレビとしては開局23年にしてようやくなるべき系列になったと言えるのかもしれない。(突然テレ朝をYTSからYBCに移行させるなど、大胆な編成をしたため)
しかし、ネットチェンジする8日前の3月24日、当時古舘伊知郎・加山雄三・田中律子が司会だった生放送音楽番組『ミュージックジャーナル(MJ)』宛に、山形地区の放送が打ち切られることになったため、「どうしても見たいのに見られなくなる」、「(仙台放送など)近隣県の系列局で見なければならない」など、苦情のファクシミリが多数送られ、その一部が番組で紹介された話はあまりにも有名である。
山形テレビはテレビ朝日系列局に生まれ変わったが、もともとテレビ朝日系列の番組自体(当時)人気がなかったことに加え、このネットチェンジによって県民の猛反発を受けたことから、山形テレビの視聴率は低迷。経営改善のためにネットチェンジしたにも関わらず、経営は一時さらに悪化した。
フジテレビ系の空白地域になった1993年4月から4年間、フジテレビの番組は一部テレビユー山形(TUY=TBS系列)が購入し放送していたが、山形が「フジテレビ空白区」であることに変わりはなかった。当時、フジテレビ制作のドラマ・バラエティー番組には世間から絶大な人気があり、アンテナを近隣県に向けてフジテレビ系の番組を見ていた世帯もあった。また、ケーブルテレビ山形(山形市など)やニューメディア(米沢市など)では、フジテレビ系列である仙台放送が視聴できたため、それらに加入する世帯が増加した。
ネットチェンジを行った1993年3月末日までの新聞のYTSのテレビ欄には、完結していないドラマも含め、(終)マークが並ぶこととなった。(昼のドラマは特例として、東京よりも早く最終回を放送し、2回続けて当日放送した。)
自社製作番組など一部は継続し、(YBCからあふれたため)山形テレビで放送していた日本テレビ系の番組も、NNN単独ネット局となったYBCへ移行。ネットチェンジはYBCの協力もあり、スムーズに遂行された。(YBCはかなり混乱したらしい)
山形県の視聴者にとっては1980年に続く番組編成の激変だったが、山形テレビとしては開局23年にしてようやくなるべき系列になったと言えるのかもしれない。(突然テレ朝をYTSからYBCに移行させるなど、大胆な編成をしたため)
しかし、ネットチェンジする8日前の3月24日、当時古舘伊知郎・加山雄三・田中律子が司会だった生放送音楽番組『ミュージックジャーナル(MJ)』宛に、山形地区の放送が打ち切られることになったため、「どうしても見たいのに見られなくなる」、「(仙台放送など)近隣県の系列局で見なければならない」など、苦情のファクシミリが多数送られ、その一部が番組で紹介された話はあまりにも有名である。
山形テレビはテレビ朝日系列局に生まれ変わったが、もともとテレビ朝日系列の番組自体(当時)人気がなかったことに加え、このネットチェンジによって県民の猛反発を受けたことから、山形テレビの視聴率は低迷。経営改善のためにネットチェンジしたにも関わらず、経営は一時さらに悪化した。
フジテレビ系の空白地域になった1993年4月から4年間、フジテレビの番組は一部テレビユー山形(TUY=TBS系列)が購入し放送していたが、山形が「フジテレビ空白区」であることに変わりはなかった。当時、フジテレビ制作のドラマ・バラエティー番組には世間から絶大な人気があり、アンテナを近隣県に向けてフジテレビ系の番組を見ていた世帯もあった。また、ケーブルテレビ山形(山形市など)やニューメディア(米沢市など)では、フジテレビ系列である仙台放送が視聴できたため、それらに加入する世帯が増加した。
山形財界やフジテレビの後押しもあり、1997年4月にフジテレビ系列局、さくらんぼテレビジョンが開局。県民を混乱に陥れた山形テレビのネットチェンジは一応の解決を見ることとなる。しかし、さくらんぼテレビジョンは送信所・中継局が他局に比べ少なく、難視聴・受信不可の地域もあるため、該当する地域では、ネットチェンジの影響が今も残っている。(温海地区は新潟を見ている。)
その後、山形テレビは平成新局の多いテレビ朝日系列、とくに東北ブロックにおいて制作力底上げにも貢献。現在は、テレビ朝日系列局として県民にも定着している。2007年には山形新聞グループを脱退し(友好関係は継続)、名実ともに朝日新聞系列の仲間入りを果たしたことで、開局時から県民を巻き込んでの騒動を繰り広げるもととなった経営上の混乱は、37年間の時を経て収束したといえる。
山形テレビのホームページにある会社概要内の沿革欄には、ネットチェンジ関連に関する内容はフジテレビやテレビ朝日といった文字も含め、全く書かれていない。但し、FNSのホームページの沿革欄には「山形テレビがネット解消を通告」と書かれている。{ウィキペティアより}
長くなりましたが、東京などではあまりないことですな。
地方では放送局と利権にからむことが多くあり、山形の服部氏や福島の小針氏、キー局ならかつてのフジの鹿内一族など。これらは選挙報道でも微妙な影響をだすという
地方では放送局と利権にからむことが多くあり、山形の服部氏や福島の小針氏、キー局ならかつてのフジの鹿内一族など。これらは選挙報道でも微妙な影響をだすという