震災から10年というと、仲には「まだうじうじとやってんのか。しつこいねん」という書き込みをたまに見かける。
当事者でなかったりすれぱたんなる1つの災害にすぎないかもしれないが、あの未曽有の災害に問わず、事故や災害で尊い命を亡くした人に、心は前向きになっても弔いと望郷への願い、亡き人を思う気持ちは変わりはない。本人がなくなるまで思い続けるもの。
復興で表向きキレイになった街も、あの人々のつながりはなくなり、済む人まばらな地区は多い。
震災から日にちがたった。金曜日、施設を外泊した日に起きて、日曜日の夜に戻ったら「連絡ぐらいよこせ!!家の電話通じてんのならなおさらだべなぁほ!!」とちゃめに怒られたあの夜。
施設のほうは非常口2か所がスロープ陥没、もともと地盤沈下していた建物の傾斜が心なしかさらにきつくなった程度で、人的被害はなかったのだが、ここからが大変だった。
まず物がこない。
私は印刷の仕事をしていたが、肝心の紙も、インクも、もちろん注文も来なくなった。紙がなければ印刷はできない。
さらに施設の重油。震災後、施設に重油を届けてくれた方が定年になり、わが施設の警備員となって教えてくれたが、わが施設に震災当日の朝、運よく給油して1か月来なくなった。会社には普段取引のない施設からも「油入れてくれないか」という問い合わせがひっきりなしに相次いだらしい。たとえ在庫があっても半分しか入れられない。そのため風呂は毎日から週3回に、暖房も最終的には朝10時から16時まで止めた。
送迎用リフトバスの軽油も深刻だ。職員手分けして複数のスタンドを回る。幸い「緊急・福祉車両優先」という紙は貼ってあったものの、満足に詰められない。
主な原因は塩釜の精油タンクが破損したこと。東北でも大型タンカーが横付けできる秋田は手に入ったが、山形は酒田港は横づけ不可能だ。
ネットで「関西から多数のタンクローリーが東北に向かっている」という情報を見つければわらをもすがる気持ちになった。
コンビニも物がなかったが、系列によってはディリーヤマザキは新潟から物資が来たため、物があった。にしても、携帯電話のモバイル充電器から反射石油ストーブ、ありとあらゆるものがない。道路も寸断て入ってこない。
薬も当然1か月分なんかもらえない。2週間後再び取りに行く手間を何度か経験した。
1か月後の深夜には最大級の余震があり、施設は大きく揺れ、東北地方すべてが大停電になった。原因は太い送電線が揺れでたわみ、電線同士がぶつかってショートしたらしい。
先日津波の特集ドキュメントを見ていて、あの時と同じようにトイレにも行けなくなり、動けないような衝動になった。体は覚えているんだなぁ。