夜だるま昆布長の、カウントギリギリ!(;゚д゚)(つд⊂)

Yahoo!ブログより移籍いたしました、夜だるま昆布長と申します。自身障がい者で、施設に通所しながら、日々アビリンピックの練習や、個人新聞を製作しています。Officeむいんぐ代表。林家木久扇名付け人です。山形県鶴岡市。

女医がどーのこーのテレビとか診療報酬ピンハネで稼がず、無医村に来い!!

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 なんか最近「診療報酬ピンハネに、有名女医関与」とかあり、おいらと同い年の西川史子が名をあげられ、あたしじゃないと否定していましたね。確かに彼女は開業していないし、某美容整形病院非常勤医師なはず。
 まー非常勤だろうが何だろうが、テレビにレギュラー出演している医者はなんか信用しきれないなぁ。
 健康食品のテレビショッピング番組の「なんとか大学教授は語る」みたいなものも。
 こんなピンハネ女医は、いま山形で話題になっている、去年から撮影していた平山あや主演「いしゃ先生」を見習ってほしい。
昭和10年、出羽三山の主峰・月山の麓を、急ぎ歩く女性がいた。志田周子(ちかこ)、26歳。
故郷の父から『ハナシタイコトアリ スグカエレ』という電報を受け取った周子は、取るものもとらず帰郷したのだ。
山形の農村出身の彼女は、努力して東京女子医専(現・東京女子医大)に入学し、医者になったばかりだった。
——風が鳴く峠のてっぺんに立つ、周子。眼下に懐かしい景色が広がった。8年ぶりの美しい故郷だった。久しぶりの実家。
幼い弟たちは周子に甘え、母・せいが手料理でもてなす。温かい出迎えを周子は喜ぶが、父・荘次郎の様子がおかしい。
大井沢村の村長だった荘次郎は、周子の了承も得ぬまま周子名義で診療所建設の予算を通し、すでに建設が始まっていたのだ。
「頼む、周子。3年だけお前の人生を俺にくれ。
その間に必ず代わりの医者を見つけるから」父に頭を下げられた周子は、
怒ることはできなかった。
無医村のこの村に医者を置きたいという父の願いは、誰よりも理解していたから。
まだまだ未熟な自分が一人で診療所の医師など
つとまるのか……不安を抱えつつ、周子は3年間だけ頑張ってみようと心に決める。
東京にいる想い人の存在を胸に秘めながら。
——自身に降りかかる数々の試練に耐え、過酷な
運命にも負けず、昭和37年にこの世を去るまで、
たったひとりで村人の命を守った「いしゃ先生」の愛と勇気の物語。
志田周子(しだちかこ)
1910年明治43年)、教員だった父荘次郎、母せいの長女として西村山郡左沢町(現大江町)に生まれる。西村山郡大井沢村(現西川町)の大井沢尋常小学校を経て山形県立山形第一高等女学校(現山形県立山形西高等学校)に進学。村で初めての女学校生と話題になる。1928年昭和3年)東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に進学。1935年昭和10年)「3年でいいから」という父荘次郎の懇請で当時無医村だった大井沢村にもどり唯一の村医となる。その後婦人会長、村会議員などを歴任。20年以上にわたり村の生活向上に尽力する。同時にアララギ派歌人としても活躍した。1959年(昭和34年)保健文化賞を受賞。その他医師会、県知事から数々の表彰を受賞。1962年(昭和37年)癌を患い死去。享年53。生涯を独身のまま地域医療に捧げた。

 山形というと、ケーシー高峰さんのお母さんも医者だった。山間とかは隣の村にしか医者がおらず、「先生さま」とか、「苗字+さま」といわれて重宝された。
 いまも酒田市飛島には医者が不在。この冬は大丈夫…あ、噂になっている女医、酒田市飛島に来なさい!!いまなら大学を卒業して「島カへ」を開く若い二人の女性が頑張っていますよ。

 医療というと、NHKの「LIFE」の企画でのどの検査をしたムロツヨシが、その結果をまじめにとらえて手術するとか。
俳優のムロツヨシ(39)が10日、自身のツイッターを更新。同日から入院し、喉の手術を受けることを報告した。
 「本日より入院、喉の手術をしてまいります」と報告したムロ。以前から喉に不調を抱えていたようで、「この度メンテし治すことに致しました、やはり舞台で思いっきりやりたいもので…」と手術の理由を説明した。
「入院は3日間ですし、心配は無用です」とした上で「しばらく無声療法というものに入ります」とも報告。治療中は話したり、笑ったりできない状態になることを明かし、「ちょっくら休んで、いってきます。すぐ戻ります」とファンへ向けて呼びかけ、報告を終えた。
 だが、その直後に「わたしのタイムラインでは 僕の呟きの次が佐藤二朗の呟きでした。仏よ、俺の手術に少しは触れろ、仏よ」とツイート。11年にテレビ東京のドラマ「勇者ヨシヒコと魔王の城」で共演した俳優・佐藤二朗(46)に、ドラマの役名「仏」を使って、佐藤に気遣いを要求した。

 お大事に。