夜だるま昆布長の、カウントギリギリ!(;゚д゚)(つд⊂)

Yahoo!ブログより移籍いたしました、夜だるま昆布長と申します。自身障がい者で、施設に通所しながら、日々アビリンピックの練習や、個人新聞を製作しています。Officeむいんぐ代表。林家木久扇名付け人です。山形県鶴岡市。

日曜夜の牙城

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 昨日の高校野球U-18(ちゃめは単純に「ゆーじゅうはち」と読んでました。)は、あと一歩氏という惜しい結果にもかかわらず、視聴率18%、瞬間27%でしたね。プロ野球より数字がいい様な。

 この現象はかつて熱闘甲子園を開始するきっかけとよく似ていますな。
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1979年の第61回大会決勝戦翌日に『水曜スペシャル』枠で「熱闘!甲子園」として単発ながらこの大会のダイジェスト番組を全国放送[1]したところ反響が大きかったため、1981年から大会期間中の平日は21:00、週末は23:00(その後、1982年から平日は22:00に繰り下げ[2])から30分枠で「熱闘甲子園高校野球ハイライト」と銘打って連日放送されるようになり、朝日放送のスポーツ担当アナウンサーらをキャスターに据えその日の熱戦を振り返った

 でもテレビ朝日はネットが他局に比べてやや少なく、この大会も準決勝まではBS朝日でやっていましたが、「数字のとれるコンテンツ。日テレの日曜夜の牙城を崩せる」という大人の判断なのでしょう。

笑点」~「おしゃれイズム」までほぼ数字を取っているため


 まーテレビ朝日は昔からこう言う差し替えはよくやる方で、夜だるまアーカイブスでも以前取り上げた近鉄ダブルヘッター」を、ニュースステーションにねじ込んだり。

 ワールドプロレスリングもこのひとつでして。
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1969年7月2日から毎週水曜日21:00 - 21:56において『NETワールドプロレスリング』としてNETテレビにおける日本プロレス中継が開始された。開始当初からカラー放送であり、日本プロレス中継時代は一貫してNETの局名を冠していた。開始当初は録画中継であった。開始当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「NETプロレス中継開始!」「世界最強の男たち10チャンネルに登場!」であった。『NETワールドプロレスリング』第1回は1969年6月23日に大田区体育館で行われた猪木&吉村vsクルト・フォン・スタイガー&カール・フォン・スタイガーと大木vsエドワード・ペレスの録画中継。開始当初の視聴率は、NETテレビ局内でベスト5に入っていた他、同年12月31日には、ドリー・ファンク・ジュニアVS猪木とのNWA世界ヘビー級王座戦(12月2日に大阪府立体育会館で開催)の録画中継を通常放送したが、『第20回NHK紅白歌合戦』の影響で視聴率は4.8%に終わる。
1970年4月6日から毎週月曜日20:00 - 20:56に変更されると同時に生中継も開始され、同時に坂口の試合中継も解禁されたが、同年に開催された「第1回NWAタッグ・リーグ戦」が引き金となり、日本プロレスは馬場派と猪木派に二分し、後に分裂の危機に立たされることとなった。1971年にはワールドリーグ公式戦中継も解禁されたが、同年12月13日に猪木が追放処分となって看板を失い(最後の猪木出場試合の中継は12月27日放送のディック・スタインボーン戦の録画中継、猪木は1972年3月に新日本プロレスを創立)、そのためNETテレビは坂口を新たなメインイベンターに起用して放送することになってしまった。
猪木という看板選手を失い、視聴率も平均で3%も低下したNETテレビは、1972年1月から日本プロレスに対し馬場の試合中継を要求した。NETテレビはこの要求が受け入れられなければ1972年3月一杯を以って番組を打ち切ると警告し、最終的に日本プロレスはNETテレビの要求を飲むことになった。そして日本プロレス役員会は馬場の反対を押し切ってNETにおける馬場の試合中継を認め、1972年4月3日放送の新潟市体育館大会において『ジャイアント馬場初登場』と銘打ち馬場を本番組の中継に出場させた(馬場&坂口vsディック・マードック&マイティ・ブルータス)ことから日本テレビとスポンサーである三菱電機が激怒し、日本テレビ三菱電機との協議の末同年5月15日の記者会見において同年5月12日放送分の東京体育館大会(「第14回ワールドリーグ戦決勝戦」などを放送)を以って『日本プロレス中継』を打ち切ることを正式発表したため(1972年5月19日以降は『日本プロレス選手権特集』として過去の名勝負集を同年7月14日まで放送)[9][10]、日本プロレスの中継は日本テレビが打ち切りを発表した同年5月15日以降はNETが独占する形となると同時に(独占中継初回は「第14回ワールドリーグ戦」石川県小松市体育館大会の生中継で、メインは坂口&吉村VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&カリプス・ハリケーンとのアジアタッグ王座戦)、ゴールデンタイムで放送されるプロレス実況中継番組は『日本プロレス中継』打ち切りの他にも、馬場のNET初登場前日である1972年4月2日にTBS『TWWAプロレス中継』が日曜18時台へ移動した事も相まって、1972年9月までは本番組のみとなり、同時にNETにおける馬場の試合中継も無条件で放送されるようになった[4]。しかし、馬場は新潟大会直後に日本プロレスを退団する意向を示していた他、日本テレビも『日本プロレス中継』打ち切り直後に極秘裏にNETに対する報復手段に近い形で馬場に接触し、新団体旗揚げなどを持ちかけるようになっていた

1972年7月28日、日本テレビでの日本プロレスの過去の名勝負を放送した『日本プロレス選手権特集』が終了した2週間後、同局の「金8枠」(毎週金曜日の20:00 - 20:54)の中継を引き継ぐ形で『NET日本プロレスリング中継』という中継枠が設けられた。当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「金曜よるの興奮プロレス中継!! 今晩8時から10チャンネルがおとどけします。」であり、なおかつ馬場と坂口の写真を掲載する事で今後の「金8枠」におけるプロレス中継はNETテレビで放送することをアピールした[4]。「金8枠」第1回は7月24日に後楽園ホールで開幕した「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」第4戦後楽園ホールからの生中継で、メインイベントは馬場VSキラー・ジョー・ノボのシングルマッチ。しかし、「金8枠」進出翌日の同年7月29日に、馬場が8月18日の宮城県石巻市中央広場大会で終了する「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」以って日本プロレスを退団する事を正式発表したため(NETにおける最後の馬場出場試合中継は8月21日放送<8月16日に新潟県三条市厚生厚生福祉会館で開催>の馬場&坂口VSエル・ソリタリオ&ジミー・バリアントの録画中継)、同年8月25日開幕の「第2次サマー・ビッグ・シリーズ」以降は坂口が新しい番組上でのメインイベンターとなった。NETにおける馬場の試合の視聴率は月曜が10%、金曜が13%であった

 先ほどあげた、猪木Vs.デストロイヤーもおそらくテレビ朝日版かと。

 ちなみにご要望の多い、「ボボブラジル対大木金太郎は、なかなか見つかりません。