たぶんこの記事の内容は、以前も書いたような気がするが、30年という節目、あの年は自分にとっても人生の節目な気がした夏だったので書いている。
個人的には25年近く前、老人ホームにいた当時97歳のばあちゃんが車いすから移動するときにこけてけがをし、「もう終わりだ」と、老人性鬱になり、自宅から母と通った夏も暑いとしか記憶がない。
30年前、オイラは中学2年の7月に、学校の体験宿泊教室の自然の家でこ関節を骨折し、寝たきりを余儀なくされたうえに、当時いた病院には整形外科医が大学病院から半月に一回しか来なく、勉強も遅れてしまうと、治療しながらベット毎登校できる上山市の訓練施設に、転校と転院をした。そこでいまのちゃめと出会う。
今までいたところも、転校したところも当然夏休み。上山市の施設は3週間の夏休みの中リハビリの関係で当時は前後一週間は施設で。自宅へはお盆の一週間のみだった。一週間ながらニコニコしながら自宅に帰る子供ら。治療とはいえ、鶴岡市と真反対の施設に、ひざ下からおなかまで石膏ギプスをまいて日中暑いなが過ごすオイラは何ともむなしかったなぁ。
事故当時はちゃめは女友達と友達の誕生会をしていて、明日から帰れるという日で、トップテンを見ながらお菓子を食べていて、「なんか頻繁にニュースはいるね。」という程度だったらしい。(山形は当時TBS系列がなく、ベストテンはやっていない)
おいらは子供らが帰るまで成人病棟にいて、自分の部屋はあったが、看護師さんの計らいでテレビのある看護室の真ん前のホールに寝泊まりしていたが、間開けていたとはいえ、向こうで寝ていたばあさんの悲鳴に悩まされていたなぁ。
当然チャンネル権はなく、ついていたものを(主にNHK)永遠とみていて、PLと東海大山形のあの試合もここで見ていた。で、7時のニュースの終わりごろから騒がしくなり、動画に載せた速報から緊急ニュースを途中まで見ていたが、今でいう「ロリマニアな医師」が、前に合ったソファーにはばかり小さい子らをからかっていて見えなかった記憶しかない。
この医師含め、当時は変わった医師がここは多かった。診療部長は最後は7人子供を作り、オイラの最初の主治医はえらい口調が荒く、ちゃめが手術した時はちょうど忘年会の予約シーズンで、
今年誰が幹事や?
内科の●×先生が3丁目の炭火焼きやでやるかと。
あそこまずいで。金ばっかり高くて!何考えてんだよあいつは。
何人でするんでしたっけ。
何人でもいいけど、ごちそうんまいどころと、二次会のねーちゃんや。
先生、看護師もいるんですけど。
看護師なんかテキトーに酒飲ませておけ。
などとちゃめの手術中にそれで盛り上がり、結果その時の縫ったところがまがっていて今でも具合悪いとか。
おい!、なんであいつがいねーんだよ。
今日休みです。
やすみだぁ?あのやろー、いっちょー前にもならないうちに休んで給料もらいやがって。
といいながら、先生の都合でギプス固定を2日延期したのは棚に上げておいてな話。2か月後の10月に転勤してから来なくなったが。
動画の放送を見ていてたが、やはりもっと早く位置がわかって、救助できていればと今でも悔やまれる。
まさか30年の月日、いじめていたちゃめと一緒にいる、もう一人であった幼馴染は去年事故死したとは、運命を感じますね。