夜だるま昆布長の、カウントギリギリ!(;゚д゚)(つд⊂)

Yahoo!ブログより移籍いたしました、夜だるま昆布長と申します。自身障がい者で、施設に通所しながら、日々アビリンピックの練習や、個人新聞を製作しています。Officeむいんぐ代表。林家木久扇名付け人です。山形県鶴岡市。

おしゃべり好きな医者と、言い伝えは様々

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 さきほども書いたとおり、湿疹が治らないため、いつも行く総合病院の皮膚科へ。
 ここへは何年か前、「いぼ」でかかったところ。
 ちなみに診断は、あせもというより「痒疹ようしん」
ようしんについての知識はこちら。ヤフーヘルスケアクリック

 内蔵系にも関係するとあったが、脂肪肝が原因かはわからず、かなり何年も前からこういう症状があったので、軟膏で様子を。

 親父の主治医なこの先生はおしゃべり好きな上に、たまに頓珍漢な発現をしますな。
 「あー、だいぶ良くなってきれいになったな。軟膏いらないか」といって、ていねいに二つ処方し、「入院してみるか」というので理由を尋ねると、「軟膏を塗ってもらうため」とか。(おいらも今日いわれかけたが、施設に居るというとあっさり引っ込んだ)
 顔は「お笑いまんが道場」の鈴木先生に似ていますが。

 さて、昨日の書き込みで、「ナンバーで使われない数字や文字」とか書きましたが、まだありますね。おかげさまで反響も言いようで。
記事はこちら

 病院も、「4と9」はさけますよね。
400番台の病棟はあっても、「404」「409」はないし、わがクリニックは5診までへやがありますが、4診の部屋は空いていて、入院や検査の説明を看護師長から聞く部屋になっています。

 ちなみに時代劇暴れん坊将軍でおなじみの火消し「め組の辰」も、いわれがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%B6%88%E3%81%97
享保5年(1720年)、地域割りを修正し、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられた。同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった。享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して15人へ半減され、町火消全体での定員は17596人から9378人となった。

のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の16組は北組・中組・南組の3組に分けて統括された。元文3年(1738年)には大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は8組となった。この年の定員は10642人で、そのうち鳶人足が4077人・店人足が6565人であった(鳶人足と店人足の違いについては。

町火消は毎年正月の1月4日に、各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである。

いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)。いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。これは、組名称が「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」に通じることを嫌ったためであるという[注釈 14]。いろは四八組のうち、「め組」は文化2年(1805年)に「め組の喧嘩」を引き起こしたことで知られ、明治時代には竹柴基水の作で歌舞伎の演目『神明恵和合取組』にも取り上げられた。