光市母子殺人事件の判決に見る
山口県光市の母子殺害事件は、9年という長い歳月の中、差し戻し裁判において、当時18歳という年齢に問えるか注目された「死刑」が言い渡されました。被告側は即刻上告され、原告側は「一つの区切り」として、それぞれがこの死刑という判決の陰陽を浮き彫りにしています。
この事件でなくても、近年「死刑」というものに対して、何度か取り上げられる機会が多くなったように感じます。宗教団体という名のカルト集団頭の判決。更には現法務大臣による粛々と執行する報道。元プロボクサーの死刑判決取り消し却下など。
死刑は、大切な人が事件に巻き込まれ、その罪を「人命の・わが身の死」で持って償うという最も重いものであり、それを現法律では、「何人殺したかによって判断基準とする」というのはもってのほか。出来ることならこの手でというぐらいの事件・心理状態もある一方で、中には執行される前、死刑囚に対し、生きているうちに真実を聞きたかったという無念のものもまたある。
しかしながら、世界的に「死刑廃止論」も又あり、日本においては、現法務大臣による発言や「与えられた任務」的に、半ばベルトコンベアー式に行うのも違和感を覚える。
被告・死刑囚にも又権利があり、もしかしてでっち上げや濡れ衣で判決が出るという可能性もある。
「無期懲役こそ地獄だ」という意見もある。生きながら罪を償う日々。老いて介護を受けながら、本来孫や家族に囲まれて暮らすはずが、生涯鉄格子越しの景色で終える自負。
被告・死刑囚にも又権利があり、もしかしてでっち上げや濡れ衣で判決が出るという可能性もある。
「無期懲役こそ地獄だ」という意見もある。生きながら罪を償う日々。老いて介護を受けながら、本来孫や家族に囲まれて暮らすはずが、生涯鉄格子越しの景色で終える自負。
かつて時の首相は言った。「命は地球よりも思い」と。今はただ、理由なく殺害された母子のご冥福を祈るしかない。残された家族の本当の戦いは、これからかナァ。
【メモ】
?H1>死刑適用の是非をめぐる司法判断は、最高裁が昭和58年に示した「永山基準」に基づいて行われる。差し戻し前の1、2審判決も永山基準に沿って検討したうえで、被告が未成年であったこと、殺害の計画性が認められないことから「極刑がやむを得ないとまではいえない」として無期懲役を選択した。当時の量刑の“相場”から言えば「妥当な判断」(法曹関係者)ではあった。
?H1>死刑適用の是非をめぐる司法判断は、最高裁が昭和58年に示した「永山基準」に基づいて行われる。差し戻し前の1、2審判決も永山基準に沿って検討したうえで、被告が未成年であったこと、殺害の計画性が認められないことから「極刑がやむを得ないとまではいえない」として無期懲役を選択した。当時の量刑の“相場”から言えば「妥当な判断」(法曹関係者)ではあった。
?H1>だが、本村洋さんをはじめとした犯罪被害者の権利意識の高まりや厳罰化を求める世論を受ける形で、最高裁は平成18年6月、「特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかない」と判示。被害者が複数の事案では、死刑を「例外」として適用されるものから、「原則」として適用すべきものへと姿勢を転換させた。
?H1>その姿勢を具現化したのが今回の判決だ。差し戻し控訴審とはいえ、広島高裁は形式的な審理にとどまらず、弁護側が主張する判決の事実誤認や被告の更生可能性について検討するために12回の公判を重ねた。そのうえでの判断だけに、判決の意味は重い。