偏見は、合わせ鏡の副産物だと思う
とりあえず統一地方選挙の前半戦が終わりまして、つかの間の静けさです。仕事で見てませんがたぶん、各局ワイドショーは、「都知事選舞台裏」や「夕張を抱える北海道は・・・」とか「サスケもでた岩手」等が取り上げられ、コメンテーターやら文化人やらがありきたりなコメントをし、仕事場や町の井戸端会議などは、「にわか評論家」が増えているでしょうか。 話はすってんてんかわり、利用者(障害者)に対する偏見や差別を感じたり、思うと答えた人は、依然9割いることがわかった。確かに「わかってくれ」と強要するにはおこがましいし、なくなってくれればこの上なくありがたい。
差別はいけないが、偏見というものは、いつ・何に対しても・いかなる場合においてもついてくる。たとえば、というかたとえにするのも失礼かもしれませんが、「拉致被害者家族会」も、われわれの家族など自分の身になって考えたり、老いゆく親の気持ちを察すると、いたたまれない気持ちであり、一刻も早い「再会」「帰国」さらには「救出」が求められるし、願っている。がしかし、現に自分の親戚などでもなく、政府も一生懸命やっているわけで、拉致があるから援助しないというのは、6ヶ国協議の中から外れるという懸念を持つ考えの人、しいて言えば「拉致拉致とうるさい」という考えの人も、残念ながらいる。外国人に対する偏見もあるし、米国では未だに、黒人差別もある。悲しいことではあるが、世の中合わせ鏡。偏見があるから分かち合おうと努力し、障害者も、黒人も、民族紛争も貧困も、そういう偏見や誤解を解いてこそ少しずつわだかまりが解けると思う。地域生活にしたって、その住民と打ち解け、その地域の「ルール」を、われわれ利用者は把握し、守っていくことが、見直されるチャンスだと考える。いかに施設での生活が「我中心」か、恵まれているか。よくわかると思う。
ボランティアや介助は、やはり「押し付け」や命令でないほうが望ましい。偏見も、無理に変えようとせず、何かの切っ掛けで変えてやるのが望ましいと思うのですが、いかがですかな。しかし、当たり前に家族が一緒に暮らすのが幸せなんですがね。
差別はいけないが、偏見というものは、いつ・何に対しても・いかなる場合においてもついてくる。たとえば、というかたとえにするのも失礼かもしれませんが、「拉致被害者家族会」も、われわれの家族など自分の身になって考えたり、老いゆく親の気持ちを察すると、いたたまれない気持ちであり、一刻も早い「再会」「帰国」さらには「救出」が求められるし、願っている。がしかし、現に自分の親戚などでもなく、政府も一生懸命やっているわけで、拉致があるから援助しないというのは、6ヶ国協議の中から外れるという懸念を持つ考えの人、しいて言えば「拉致拉致とうるさい」という考えの人も、残念ながらいる。外国人に対する偏見もあるし、米国では未だに、黒人差別もある。悲しいことではあるが、世の中合わせ鏡。偏見があるから分かち合おうと努力し、障害者も、黒人も、民族紛争も貧困も、そういう偏見や誤解を解いてこそ少しずつわだかまりが解けると思う。地域生活にしたって、その住民と打ち解け、その地域の「ルール」を、われわれ利用者は把握し、守っていくことが、見直されるチャンスだと考える。いかに施設での生活が「我中心」か、恵まれているか。よくわかると思う。
ボランティアや介助は、やはり「押し付け」や命令でないほうが望ましい。偏見も、無理に変えようとせず、何かの切っ掛けで変えてやるのが望ましいと思うのですが、いかがですかな。しかし、当たり前に家族が一緒に暮らすのが幸せなんですがね。