夜だるま昆布長の、カウントギリギリ!(;゚д゚)(つд⊂)

Yahoo!ブログより移籍いたしました、夜だるま昆布長と申します。自身障がい者で、施設に通所しながら、日々アビリンピックの練習や、個人新聞を製作しています。Officeむいんぐ代表。林家木久扇名付け人です。山形県鶴岡市。

夜だるまスポーツ

今回から3回連続で、新日本プロレスのレフェリーやマッチメイカー、審判部長を25年にわたり務めたミスター高橋さんに取材を試みた内容を紹介したい。今回は、その1回目となる。

 高橋さんは引退後の2001年、『流血の魔術 最強の演技―すべてのプロレスはショーである』 (講談社) を書き著したことでいちやく話題になった。プロレスは、試合をする前に勝ち負けや試合展開が決まっていること、さらには流血試合の真相まで詳細に書かれた内容だ。当時、「プロレスの裏を暴露した」という批判もあれば、「プロレスを新たな見方で観戦できるようになった」という肯定的なとらえ方もあった。

 いずれにしろ、その後も読まれ続け、今なお、話題の書となっている。1970~90年代の新日本プロレス黄金時代を支えたアントニオ猪木選手、坂口征二選手、藤波辰爾選手、長州力選手らの試合を数多く裁いたレフェリーが語る「使えない部下・使えない上司」とは…。

 1941年、横浜市生まれ。スポーツ歴は柔道やパワーリフティングなど。1972年、新日本プロレスに入団。25年にわたり、レフェリーとして2万試合以上裁く。語学力を生かし、外国人選手の担当としても活躍。一時期は、審判部長やマッチメイカーなどを務める。1998年に引退し、新日本プロレスを退団。その後、警備会社の教育部に勤務後、高校で「基礎体力講座」の講師を務める。現在、高齢者の介護予防運動指導や執筆・講演活動などを行う。NPO日本チューブ体操連盟貯筋倶楽部理事長。

 著書に『流血の魔術 最強の演技』 (講談社)、『悪役レスラーのやさしい素顔』(双葉社)、『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』(宝島)など多数。ウェブサイト「GoGetterz」の「ミスター高橋が教える、高齢にもやさしいノンロック筋トレ法」で、中高年向け筋トレ法を教える。

Q 高橋さんは『流血の魔術 最強の演技』(講談社)の中で、アンドレ・ザ・ジャイアント選手と前田日明選手の試合(1986年4月29日)について書いていますね。あれは、いわゆる「不穏試合」だったのでしょうか?私は、インターネットの動画サイト「YouTube」で見ましたが、試合会場には異様な空気が漂っていますね。

高橋:試合の前に決めておいたこと、つまり、マッチメイクで決めたはずの試合展開とはまったく違う内容になりました。あの試合のレフェリーは私ではなかったのですが、ちょっと嫌な予感がしたので控え室から出て、客室の後方から観ていたのです。

案の定、試合開始早々から、どうも様子がおかしい。その後も状況は変わらない。私は審判部長であり、マッチメイカーでしたから、急いでリングサイドへ走っていきました。リングの下から(アンドレ・ザ・)ジャイアントに「(事前に)決めたとおりにやってくれ」と指示を出したのです。だけど、聞こうとせず、不穏な流れのまま、危険な展開となってしまいました。結局、私がリングへ上がり、「没収試合」ということにして止めたのです。

マッチメイカーはごく稀なことですが、相当に危険な試合になっているようなときは、ストップをかけなければいけない立場でもあるのです。選手の立場や生命を守らなければいけない。もちろん、お客さん(観客)に喜んでもらい、満足して帰っていただくことも大切です。しかし、選手が致命傷になるような大きなケガをしたり、命を落としたりするようなことは避けなければいけないのです。

あの試合は、本来は前田が負けることになっていました。私が試合前に前田に「前田、悪いけど、今回は負けてね」と言いました。前田は当然と言わんばかりに「わかりました」と答えていました。対戦相手がジャイアントなのだから、前田に勝たせるわけにはいかないのです。(当時の新日本プロレスとして)そんな結果にはできません。ジャイアントはあの時代、外国人選手のトップですから。

Q 試合開始数分で、アンドレが前田さんの上に乗り、全体重をかけて潰すようなことをしましたね。その後、前田さんがローキックを入れて、反撃をします。アンドレがリング中央で仁王立ちのようになります。前田さんからの蹴りを受けるだけで、ほとんど動かない。前田さんは容赦なく、ローキックを入れます。最後はアンドレが自ら、マットに寝ころび、試合放棄のような状況に私には見えました。

高橋:ジャイアントが寝ころんだのは、「お前が得意とするグランドで勝負しよう」という誘いです。試合前には、前田を子ども扱いにして潰してやろうという考えがおそらくあったのだと思います。ところが、そのようにはならなかった。前田の実力がすごくて…。ジャイアントはきっと、「こんなに強かったのか…」と驚いたのでしょう。そのときには、もう引き返すわけにいかなったわけです。ジャイアントにとって、思い出したくない試合なのだろうと思います。

その後、ジャイアントとあの試合について一切話しませんでした。前田についても、話すことはしません。外国人の選手の間でも、タブーになったようです。ジャイアントは、前田を子ども扱いにするどころか、逆に蹴りを何度も受けました。私は、ジャイアントのその屈辱的な思いや気持ちがわかるから、「なぜ、あんな試合をしようとしたのか」と聞くことはしませんでした。

Q アンドレの試合の後(1986年6月12日)に、前田選手が藤波辰爾(辰巳)選手と試合をしました。前田さんが藤波さんをコーナーに追い詰めて蹴りを入れると、藤波さんの頬から血が出ます。あれは、選手やレフェリーなどがカミソリを使って血を流す「ジュース」でははく、蹴りで本当に頬が切れた、いわゆる「生ジュース」ですね。私は、「YouTube」の試合を静止画にして何度も見ました。あのような蹴りに、アンドレが怒っていたのでしょうか?

高橋:前田との試合内容が、アンドレにどのような影響を与えたのかは、私にはわかりません。あの頃、前田はたしかに勢いがありました。若かったし、体力もあった。とにかく強かったですよ。あの時代、プロレスラーの中で前田のような蹴りをする選手は少数だった。蹴りといえば、ストンピングやドロップキックぐらいでした。前田の蹴りは、それ以前のプロレスの枠から外れていたのです。そのようなことに外国人選手たちがおもしろくないと思っていたのかもしれません。アンドレがそのように感じていたのかは、私にはわかりませんが。

Q マッチメイカーをしていたとのことですが、主にどのようなことをするのでしょうか?

高橋:(当時の新日本プロレスは)通常、1日の試合はオープ二ングの第1試合から、メインイベントの8試合か、9試合まであります。マッチメイカーはその対戦カードを前日までに作り、リングアナウンサーに渡します。リングアナウンサーが対戦カードを紙に大きく書いて、日本人選手の控室と、外国人選手の控室に貼ります。当日、選手が控室へ入り、最初に見るのは対戦カードです。「俺は何番目の試合で、対戦相手は〇〇か」とわかるわけです。

マッチメイカーは、試合のことが頭から離れないものです。特にテレビ(テレビ朝日)放送する試合は、かなり前からその日の試合のことを考えています。対戦カードと試合のストーリーやどちらを勝ちにするか、という結末まで、夜も眠れないほどに思いをめぐらせることはざらにあります。あの頃、武藤(敬司)、蝶野(正洋)、橋本(真也)を(新日本プロレスが)デビューさせたのですが、私がマッチメイカーでした。彼らとは年齢が離れているから、酒を飲んでざっくばらん話をしたことはないですね。向こうが気疲れするでしょうし。

Q プロレスには、やはり、「筋書き」があるのですか…。たしかに、そうでないとあそこまで技をきれいにかけることは難しいのかもしれませんね。同じ選手が総合格闘技の試合に出ると、技をかけることがなかなかできない。私が取材をしたあるプロレスの選手(1960~1990年代に現役)は、対戦相手と事前に電話で話をしながら、試合の展開を詳細に決めたと話していました。

高橋:『流血の魔術 最強の演技』に書いたとおり、プロレスはショービジネスです。少なくとも今のファンは、ショービジネスであることを承知のうえで、試合を観戦し、楽しんでいます。1999年にアメリカでWWF(後のWWE)が株式公開する際に、「プロレスはショービジネス」であるとカミングアウトしました。本家のアメリカのプロレスの団体がそのように言っているのに、日本のプロレスが「試合は真剣勝負だ」と言っても説得力がありません。日本人の試合が真剣勝負だとすると、アメリカから来た選手と試合でかみ合うわけがないですよね。

私がマッチメイカーをしていた頃は、試合のストーリーを決めていました。詳しく決めるのは、セミファイナルとメインイベントぐらいです。その前までの試合は、だいたいの内容だけを選手に伝えておきます。“勝ち負け”はマッチメイカーである私があらかじめ決めておきました。そのうえでたとえば、「〇〇(選手の名前)、悪いけど、今日は“負け”だからね。どういうふうにして負けたらいいのか、インパクトのある方法を2人で考えておいて…」と伝えます。

Q 選手は「勝ち負け」に従うものなのでしょうか?「負ける」ことに屈辱感はないのでしょうか?私が取材をした元選手(1970~90年代に現役)は、「屈辱感を感じるような人はプロレスの選手に向いていない」と答えていました。「強さではなく、上手さを競い合うのがプロレスだ」とも説明していました。試合当日はその会社のマッチメイカーから、「今日はこれな…」と親指を下にして指示をされる、と話していました。親指を下にすると、「負け」を意味するのだそうです。

高橋:マッチメイクに従うのはプロレス界の鉄則です。選手は誰であれ、まず、逆らうことはできません。マッチメイカーである私が「今日は寝てね(負けることを意味する)」と言ったときに、「なぜ?」とか、「嫌だよ」と答える選手はほとんどいませんでした。日本人に限らず、外国人の選手も「わかりました」と答えます。そのことで何かを言い争うなんてことは、まずありませんでした。ただし、上から目線的な指示は避けなければいけませんね。

ありえない極端な例ですが、たとえば、前田を前座の試合へ持って行き、「前田、おまえ、今日負けな」と言ったら、「えー?どうしてですか」とおそらくなるでしょう。だけど、そのようなことはしません。それは前田の商品価値を崩すこと、イコール、我々(当時の新日本プロレス)の損失になります。そんなことを私は絶対しませんでした。

ジャイアントとの試合のときは、「前田、今日ちょっと悪いけど、負けてくれる?」とは言いました。前田からしたら、「この選手にならば負けても仕方がないな」と思えるような対戦カードと試合展開をマッチメイカーとして私は考えていましたから…。

Q 高橋さんは、前田さんのことを話すときは息子さんのことを話すような表情になりますね。『流血の魔術 最強の演技』の中でも、前田さんをずいぶんと擁護しているように思えました。

高橋:うちの子どもたちと(前田さんは)年齢が近いのかな。いやいや、彼のほうがずっと上だ。私は、彼の一本気なところが好きでした。あの頃の前田には、ずるいところがなかった。あのまま(新日本プロレスに)残っていれば、早いうちにトップスターになることができたのかもしれない。お金をもっと稼ぐことができたかもしれません。だけど、新日を辞めた。前田は、どのようなリスクがあるのかを計算しない。それでも、自分が信じる道を突き進む。そんなところが、すごく好きだった。

彼が(新日本プロレスを)辞めようとしているのを事前に感じなくはなかったのですが、2人で話し合おうとする機会や場面はありませんでした。あの頃、私から「前田、ちょっと話しをしようか」と言ったところで、「いや、高橋さん…うん、いいですよ…」とやんわりと断られたかもしれない。私は、あいつのそんな一本気なところ、計算高くないところが好きだったのです。

Q マッチメイカーとして仕事がしやすかった選手と、困り果てた選手をお教えください。

マッチメイカーが決める対戦カードや試合の勝ち負けなどに反論をする選手は相当に少ないので、その意味では仕事がしやすい選手が多かったですね。今も強く印象に残っているのは、トニー・セントクレアー選手です。シュートスタイルの技をしっかりと身につけていて、そのレベルはイギリスでは超トップ級でした。そんな選手が、こちらに(新日本プロレスに)来ると、自分の立場をきちんとわきまえて試合をするのです。

私がたとえば、「トニー、悪いけど、今日寝てくれる?」と言うと、「オーケー、ピーター(高橋さんのこと)。(試合の展開は)どうすればいい?」と答えます。あれが、すごくうれしかった。今でも「オーケー、ピーター。どうすればいい?」という声が耳に残っています。

マッチメイカーとして仕事をするうえで困った選手はごく少数ですが、あえて言えば、ブルーザー・ザ・ブロディです。彼が参加するシリーズは、憂うつになりました。私は外国人選手を連れて、全国(の試合会場)を動きまわるのです。宿泊先のホテルで対戦カードや試合展開を考えていると、彼が私の部屋へ来るのです。「明日、俺の試合はどうなのか?」と聞いてきます。「セミファイナルだよ」と答えると、「なぜ、俺をメインイベントにもってこない?」とさらに聞いてくるのです。そして「(当時、社長であり、オーナーであった)猪木の上に俺をもっていけ。俺をメインイベントにしろ」と言います。

私が、「猪木さんで(会社の経営が)もっているんだよ」と説明すると、「いや、違う。俺が客を呼んでいるんだ」と反論します。「客の目当ては、俺だ」とまで言います。ひたすら、自分の主張を押し通すのです。あれには、困りました。さすがに、彼を負けさせる試合にはしませんでしたよ。外国人選手のトップメンバーの1人でしたから。だけど、毎回、彼をメインイベントにすることはできない。なぜ、あれほどに我が強かったのか、わからない。とにかく強がりで、目立ちたがりで、わがままでした。今も、印象に残っている選手ですね。