このイラストのように九月中旬に敬老の祝いを行い、お寿司を三人で食べたのが思い出になりました。
改めて皆様にはご心配をおかけいたしました。しばらくはこのことや、葬儀で起きた妙なことが中心になります。
ちょうど一週間前、危篤近いという電話からしばらくして昼過ぎ、「見回りに行ったら心臓が止まっていまして、すぐきていただけませんか!」と、病棟師長の電話で言われてからあっという間。病室では私が到着するまで看護師さんや医師が交代でつないでいて、私から「帰りたいと常々言っていたので、連れて帰ります。もういいです」と告げて終わりました。
しばらくして駆け付けた父親の友人の一言から、悲しみに暮れる暇もない現実にからわれ、檀家の寺、会員になっていた葬祭会社、連絡していなかった親戚、これから向かうといっていた親族に伝え、父の霊柩車には乗らずちょっと医師と話をした後郵便局やらによってセレモニーホールへ。
自宅にいったん運びたかったのですが、ちゃめとまたこの次に泊まろう。そして見舞いに行こうとしていたものがそのままになっていたため、本葬、初七日(一緒に行う)後に連れて帰りました。
二日間ホールに泊まり、初日はじいちゃんと大工の兄弟弟子だった葬儀委員長と深夜まで打合せし、ほとんどあれこれ考えて寝付けぬまま朝になり、二日目の通夜の夜はいとこの兄さんと、これがまた泣き上戸で、コップ酒を飲んでは祭壇で泣き、あまりにひどいため話題を、私が名付けた「林家木久扇」の話をしたら落語好きということが分かり、笑って寝たもののいびきが。(^_^;)
「お前が来ないと俺が倒れそうだ」とマジに思い、メールしたら、ちゃめが来てくれ、葬儀後の夜はようやく戻った自宅で深夜、二人で泣き明かしました。
私は出棺前の読経最中「あーあ、とうとう焼かれるのか。あんちゃま(こう呼んでいた)、わりぃどもたのむで」と聞え、葬式の最中はちゃめにいつも車いすの後ろに荷物をかけてあげる感じで挨拶に来たそうです。
今週、二人でまた帰り、近所の方と寝床などを片付けないと。あとやれ年金証書だのなんだの市役所が持って来いと。
母親がよく言っていた「男の子は泣くな」を守り、親父の一つ頼むという言葉を胸に、この両親でよかったと思いました。