今日はおいらもちゃめも通院。30度をはるかに超すいい季節。
大相撲も終わり、戦いの舞台はは甲子園、リオですな。
名古屋場所が開催されている愛知県体育館は、1964年(昭39)に完成してから50年以上が経過し、老朽化が進んでいる。エアコンは稼働しているが、席によって寒暖の差が激しい。2階席の最上段では、日本相撲協会の世話人2人が「暑い、暑い」とぼやきつつ、本場所に欠かせない仕事をしている。
陸奥北海(52)と嵐望(44)が担当しているのは、「電光掲示板係」。正面と向正面に分かれ、電光掲示板の機械を操作する。対戦する2人が土俵に上がると四股名の上下に赤いランプをともし、取組後は勝った力士だけ点灯させておく。
LED化はされてない。本番で突然、電球が切れたこともある。「安美錦の電気がつかない時があったけど、ドタバタしているうちに取組が終わった」と陸奥北海。幸い(?)安美錦が敗れて事なきを得た。操作盤はサビだらけ。遠隔操作はできない。四股名を書いたプレートは毎日、手作業で入れ替える。
わが今ブログを書いている私のわきに、業務用の古いクーラーがありますが、こいつも古い。
なにせ脇にいるから涼しくない。(;´Д`A ```
大関2場所目となった1942年5月場所、番付を見た照國はそれまで双葉山定次と同じ片屋にいたが、この場所は反対側に回されていたため、本人曰く「こっち(反対側)に回ったら双葉山に勝たないと横綱になれない。でも自分には到底勝てそうにない」と弱音を吐いていたが、14日目にその双葉山定次を下手投げで倒して12勝2敗とするが、当時は「番付上位優勝制度」が存在した時代だったため、千秋楽を迎えた時点で張出大関の照國には優勝の可能性が無かった。結局、この場所の優勝は正大関である安藝ノ海節男(1敗)と双葉山定次(2敗)の対戦で決まることになり、双葉山定次が勝利して両者とも13勝2敗、番付上位優勝制度によって双葉山定次が優勝した。照國は前田山英五郎を倒して13勝2敗で、安藝ノ海節男と優勝同点とした。
最年少横綱
ここまで照國に優勝経験は無いが、安定感のある成績と双葉山定次を倒した星が買われて「事実上の優勝者」と判定されたため、場所後に安藝ノ海節男と揃って横綱へ昇進、この時23歳4ヶ月で梅ヶ谷藤太郎の持つ最年少横綱の記録を39年ぶりに更新した。
新横綱となった1943年1月場所は、双葉山定次に唯一の黒星を付けられて14勝1敗に終わり、双葉山が全勝のため初優勝を逃す。その後も成績は安定しているが、第二次世界大戦による食料事情の悪化に加えて敗戦による影響もあって体重が激減したり、終戦直後も糖尿病や左肩・左膝の故障が多発して優勝は出来なかった。東京大空襲で持ち家を3件焼失する、1948年10月には引退後の部屋新設に向けて土地を購入するも詐欺に遭い代金の二重払いを強いられるなど私生活でも災難に見舞われた。
それでも1950年9月場所は13勝2敗で吉葉山潤之輔との優勝決定戦を制し、横綱昇進から8年後に悲願の初優勝を達成した。1951年1月場所には全勝優勝を達成し、この連覇によって「優勝なき横綱」の汚名を返上すると同時に、優勝額復活第1号を飾ることになった。その後は無傷だった右膝も故障して優勝が無く、1953年1月場所には糖尿病の悪化に胃潰瘍が加わって3日目から休場、同場所14日目に現役引退を表明した。
御嶽海、宇良ともにけがには注意してもらって、上に上がってほしいし、逆に遠藤にはきちんとけがを治してほしいが、あそこの部屋はつぶすからなぁ。
さ、今日から「相撲ロス」。夜だるまアーカイブスに、むかしの相撲などを載せることにします。