昨日のかんする父親にブログ投稿に、たくさんのご意見を賜りまして、ありがとうございました。
いろんなご意見がありましたが、まずは
たった一人の肉親なので、私や近所の方々、ケアマネや彼女らと見守り、一日でも長く今の自分でできる生活を維持できるよう支援したいと思っております。
また、次の投稿へのヒントをいただいたので、あす以降載せたいと思います。 さて、本日は「チャレンジデー2015」なのだそうで、深夜0時からきょう午後9時までに、15分程度の体を動かすことをして申告すると、加茂水族館割引券や鶴岡市内日帰り温泉割引き入湯券(1回のみ)がもらえる。
鶴岡市は伊勢原市と対決なのだそうだ。
わが施設でもラジオ体操第一・第二、「あしたがあるさ」に合わせて踊るリズム体操他を行いました。
鶴岡市は伊勢原市と対決なのだそうだ。
わが施設でもラジオ体操第一・第二、「あしたがあるさ」に合わせて踊るリズム体操他を行いました。
1990年代の音楽界を席巻した「ZARD」のボーカル、坂井泉水さんが2007年5月27日、40年の短い生涯を閉じて、はや8年の歳月が流れた。昨年末、小田急線・渋沢駅(神奈川県秦野市)では、同市とゆかりがある坂井さんを偲び、「駅メロ」にZARDの曲が使われるなど、死後もその功績が薄らぐことはない。「負けないで」や「揺れる想い」などのミリオンセラーを連発した華々しい功績とは裏腹に、メディアの露出が極端に少なかった“歌姫”。その知られざる素顔を改めて振り返ってみよう。
謎に包まれた歌姫の生涯は、最後の最後までミステリアスだった。
「坂井泉水さんの転落死のニュースは、所属事務所の発表を受けてテレビ局が臨時テロップで流した。ただ、確認できた彼女の年齢は二つあり、捜査員は年齢を確認するだけでも混乱したんです」(当時の捜査関係者)
坂井さんは1967年2月、神奈川県平塚市で生まれている。彼女のプロフィルは公表されることはなかったが、「ZARD」としてデビューする前、彼女は本名の蒲池幸子として、タレント活動をしていた。当時のプロフィルは「1969年2月生まれ」だった。
「坂井さんの場合は、他のアーティストとまったく手法が異なっているんです」「坂井泉水さんの転落死のニュースは、所属事務所の発表を受けてテレビ局が臨時テロップで流した。ただ、確認できた彼女の年齢は二つあり、捜査員は年齢を確認するだけでも混乱したんです」(当時の捜査関係者)
坂井さんは1967年2月、神奈川県平塚市で生まれている。彼女のプロフィルは公表されることはなかったが、「ZARD」としてデビューする前、彼女は本名の蒲池幸子として、タレント活動をしていた。当時のプロフィルは「1969年2月生まれ」だった。
そう語るのは、1991年のデビュー以来、坂井さんを撮り続けてきた映像制作担当者である。
「レコーディングや何げない日常の風景を撮るために、片隅で長時間カメラを回しました。作りこんだ映像よりも自然体の彼女のほうが魅力的だった。このため、自然と横向きの映像が多かったのです。本人もそういった映像を気に入っていました」
ロケで20時間もカメラを回しながら、実際には1分程度しか本編で採用されなかったこともあったという。作品に妥協しなかったという、彼女のストイックな一面がうかがえる。
「PVというよりドキュメント番組に近い作りだと思います。16年間で残された未公開映像は膨大な量になりました」
メディアへの露出が少ないためか、街角で突然ファンにサインを求められる経験も少なかったようだ。こんなエピソードもある。シドニーのロケでの出来事だ。
「坂井さんが散歩している姿を撮影していると、気がついた日本人の新婚カップルがサインを求めてきました」
坂井さんは少し困ったような表情を浮かべて、映像制作担当者のもとに歩み寄り、こう言ったという。
「こういうときって、サインしてあげてもいいんですよね?」
この担当者が「してあげればいいんじゃないかな」と答えると、うれしそうな様子でサインに応じたという。
05年末、小さな水族館を併設した東京・恵比寿のレストランで撮影した。海が好きな坂井さんはシチュエーションがとても気に入ったらしく、「今度は水族館で撮影したい」と自ら撮影を企画。07年4月には水族館でのロケを予定していた。
だが、撮影日の数日前になって、坂井さんから撮影担当者に一通のメールが届いた。
〈また治療のため入院しなくてはいけなくなったので、撮影できなくなってしまいました〉
子宮頸がんの摘出手術を受けたものの、がん細胞が肺に転移していたのだ。
「一度お見舞いに行きました。彼女はもどかしかったでしょうね。『早く仕事がしたい』と。いつもスタッフに心遣いをみせていた彼女は、帰り際にベッドから起きてわざわざエレベーターの前まで見送ってくれました。それが坂井さんと会った最後でした」
前出のビデオで、坂井さんは「幸せとは?」と問われて、こう答えている。
「自分の好きなことを、一生やり続けていけることだと思います」
亡くなった年の秋には、アルバムの発売とライブツアーを行う計画があった坂井さん。闘病中も病床で詩を書き続けていたというが、その一生は幸せだったのか。やはり無念だったのか。
いくら問うても、「永遠」に「君がいない」――。
これ、亡くなったときにも皮肉で、同じ病院に「自殺した当時の農水大臣も運ばれていて、記者のほとんどがそっちに行ってしまい、まるで本人の活動記録のようにひっそりと後にした」んでしたね。「レコーディングや何げない日常の風景を撮るために、片隅で長時間カメラを回しました。作りこんだ映像よりも自然体の彼女のほうが魅力的だった。このため、自然と横向きの映像が多かったのです。本人もそういった映像を気に入っていました」
ロケで20時間もカメラを回しながら、実際には1分程度しか本編で採用されなかったこともあったという。作品に妥協しなかったという、彼女のストイックな一面がうかがえる。
「PVというよりドキュメント番組に近い作りだと思います。16年間で残された未公開映像は膨大な量になりました」
メディアへの露出が少ないためか、街角で突然ファンにサインを求められる経験も少なかったようだ。こんなエピソードもある。シドニーのロケでの出来事だ。
「坂井さんが散歩している姿を撮影していると、気がついた日本人の新婚カップルがサインを求めてきました」
坂井さんは少し困ったような表情を浮かべて、映像制作担当者のもとに歩み寄り、こう言ったという。
「こういうときって、サインしてあげてもいいんですよね?」
この担当者が「してあげればいいんじゃないかな」と答えると、うれしそうな様子でサインに応じたという。
05年末、小さな水族館を併設した東京・恵比寿のレストランで撮影した。海が好きな坂井さんはシチュエーションがとても気に入ったらしく、「今度は水族館で撮影したい」と自ら撮影を企画。07年4月には水族館でのロケを予定していた。
だが、撮影日の数日前になって、坂井さんから撮影担当者に一通のメールが届いた。
〈また治療のため入院しなくてはいけなくなったので、撮影できなくなってしまいました〉
子宮頸がんの摘出手術を受けたものの、がん細胞が肺に転移していたのだ。
「一度お見舞いに行きました。彼女はもどかしかったでしょうね。『早く仕事がしたい』と。いつもスタッフに心遣いをみせていた彼女は、帰り際にベッドから起きてわざわざエレベーターの前まで見送ってくれました。それが坂井さんと会った最後でした」
前出のビデオで、坂井さんは「幸せとは?」と問われて、こう答えている。
「自分の好きなことを、一生やり続けていけることだと思います」
亡くなった年の秋には、アルバムの発売とライブツアーを行う計画があった坂井さん。闘病中も病床で詩を書き続けていたというが、その一生は幸せだったのか。やはり無念だったのか。
いくら問うても、「永遠」に「君がいない」――。
亡くなったとき、私より年上にびっくりしましたが、あれから8年なんですね。
7回忌を持ってついというライブは一区切りしたものの、ファンクラブは継続しているんですよね。
曲では「きっと忘れない」が好きなんですが、彼女がカバーした作品もあり、中でも久保田早紀「異邦人」が、なんかしっとりと違うイメージで歌っていていいですよ。一度見つけたら載せたいと思います。というかもう載せてますが。