きのう書こうと思って頭に入っていたが、スコーンと抜け落ちまして。
新潟地震(にいがたじしん)は、1964年(昭和39年)6月16日13時1分41秒(JST)、新潟県粟島南方沖40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震。地震の規模はM7.5。
被害は新潟県・山形県・秋田県など日本海側を中心として9県に及んだ。激しい被害で、海外のメディアも「日本の北西部で大地震が起きる」と伝えるほどの地震ではあったが、死者が僅か26名だったことから「奇跡」と評されたこともある。
山形県庄内地方は新潟県に次いで被害が大きく、庄内地方を襲った地震としては、1894年(明治27年)の庄内地震に次ぐ激震であった。鶴岡市の大山・水沢・西郷地区では家屋の倒壊が相次いだ。児童生徒が犠牲になる事態も多く、同市にある京田幼児園では園舎が倒壊し園児3名が圧死、園児14名と保育士1名が生き埋めとなった。この事故は園舎の老朽化も原因とされた。この事態を6月18日付の地元紙荘内日報では「まさに生きながらの地獄絵図であった」と報じている。酒田市の市立第三中学校では、グラウンドに生じた亀裂に2年生の女子生徒が転落しすぐに病院へ搬送されたが死亡する事故も起きた。
当時新潟市には、油脂火災に対応出来る化学消防車が未配備で、原油タンクの消火活動が出来なかったため、自治省消防庁経由で東京消防庁に応援要請があり、蒲田消防署を主力とする応援隊が派遣され消火に当たった。一時はガソリン用添加物のタンクや水素タンクにも類焼危険が発生したが、東京から駆けつけた化学消防車5台と隊員の20時間に及ぶ消火活動で類焼を免れた。もしこのタンクに類焼していた場合、新潟市全域に爆発被害が及ぶ危険があった。消火作業のため県内の民間企業にある自衛消防隊が所有する化学消防車に出動要請をかける事にしたが、連絡手段が壊滅していたため、ラジオで「○○会社の関係者の方に対策本部からの出動要請です、化学消防車を新潟市に派遣してください」との放送を行い、その放送を聞いた関係者によって駆け付ける一幕もあった。
新潟地震の発生時期はちょうど、カラーテレビが普及しはじめた時期でもあり、豊富な記録映像が残った初めての地震としても知られる。これらの被害を収めた衝撃的な映像は、全国ニュースなどで日本各地に伝えられた。ただし、地震発生時は新潟県内の局はマイクロウェーブ回線がどの方面(3方向4回線)も切れてしまっており、NHKでは夕刻に自力で放送を再開した新潟放送局の映像を富山放送局が辛うじてとらえ、ようやく全国に映像が流れるという混乱ぶりであった。新潟放送では14時15分からテレビ放送再開、被災した局舎屋上からの実況放送中に局舎の真横を流れる信濃川を遡上する津波を放送し2インチVTRにも録画された。また、空撮の為に新潟空港に居た同局のカメラマンは滑走路上で発生した液状化現象を8mmフィルムカメラで撮影し、使用不能寸前の新潟空港から羽田空港へ向かい待機していた東京放送(現:TBSテレビ)のスタッフにフィルムが渡され全国放送された。映像は研究資料などとしても活用され、その後の地震対策などに大きな貢献を果たしている。
なお、2014年には新潟映画社が地震直後の万代橋の復旧工事を撮影・記録していた映像ネガフィルムが新たに発見された。
なお、2014年には新潟映画社が地震直後の万代橋の復旧工事を撮影・記録していた映像ネガフィルムが新たに発見された。
じつはこの時、独身だった母親は酒田市の某病院の、今でいう看護助手兼家政婦として、当時バツイチで二人の子供も幼かった先代院長宅に住み込みで働いていて、患者の給食下げ善の後にちょうど従業員と家族用の昼食の支度として味噌汁を作っている最中に揺れにあい、床下の糠漬けをとろうとしてしゃがんでいたところとっさによけ、
あと一歩で煮えたぎる味噌汁を頭からかぶる寸前でした。
一方で、先の東北太平洋大地震の震災では、乳児を含め3人の子持ちの39歳の消防団員が85歳の老婆を背負って逃げる途中、津波に巻き込まれ亡くなった。老い先短き老婆を助けようとして、今後何十年も生きなければならない子ども達を残して死ぬ選択は正義に適っていたかと。
この一件を含め、消防団員の命がけの行動は一方で大いに賞賛されたが、消防団員を持つ家族の激しい同様と不安を誘い、年間5000人もの消防団員の退団という事態を招いた。消防職員、警察官、自衛官同様消防団員にも緊急避難を認めていなかったことが悲劇を誘引した。
消防団新法が制定され、団員の確保と待遇改善を計ることになったが、より重要な問題は特別職の消防団員にまで緊急避難を認めないのはおかしいのではないかという議論だった。そして遂に自らの判断で危険を察知した場合は自主的に避難することが優先されることになった。
85歳の老婆を背負って逃げる消防団員。危険が迫ってきたら「許せ。自分には守らなければならない妻子がある!」と背中から下ろし自分の命を最優先に逃げることが認められるようになった。東日本大震災の消防団員の殉職者は死して後輩団員達の命を守る道を開いたのだ。というツイートを見た。
この一件を含め、消防団員の命がけの行動は一方で大いに賞賛されたが、消防団員を持つ家族の激しい同様と不安を誘い、年間5000人もの消防団員の退団という事態を招いた。消防職員、警察官、自衛官同様消防団員にも緊急避難を認めていなかったことが悲劇を誘引した。
消防団新法が制定され、団員の確保と待遇改善を計ることになったが、より重要な問題は特別職の消防団員にまで緊急避難を認めないのはおかしいのではないかという議論だった。そして遂に自らの判断で危険を察知した場合は自主的に避難することが優先されることになった。
85歳の老婆を背負って逃げる消防団員。危険が迫ってきたら「許せ。自分には守らなければならない妻子がある!」と背中から下ろし自分の命を最優先に逃げることが認められるようになった。東日本大震災の消防団員の殉職者は死して後輩団員達の命を守る道を開いたのだ。というツイートを見た。
職場放棄かもという考えも芽生えたが、消防団員は究極のボランティアであり、一方でどうなのかなぁと。