ブログに上げたとおり、地元の祭りと、そのまえに名前だけの個人事務所「officeむいんぐ」の親睦会という名の食事会を、社員三名プラスその家族、名誉顧問とともに暴風雨の中、行いました。
我々は寒いのであつあつの麺類をすする中、顧問はあい反発しカレーを注文したものの、げろまずいという最悪な結果に。見た目は美味しそうだったのですが。
ちなみに事務所は今年度、5年ぶりにおいらが社長兼新聞編集長に復帰。ちゃめが「ぼっこれ最高経営責任、しぃいいおぅ」に。(なんだそりゃ)
しかしまぁこの週末も、いろいろありましたわなぁ。
相撲は土俵入りで「まさかの行司が先導を忘れて装束脱いじゃってくつろいだ」だの、飛鳥が「ヤク&飛鳥」で捕まったり。
初犯なら、何年か猶予して復帰し(二度とやらない、こんど捕まったら最後という崖っぷちではあるが)、今でも活躍している人もいる一方、飛鳥は、一度「わたしはやっていない」と否定しただけに、再犯みたいなもの。復帰はタシーロなみに厳しい。
というか、タシーロのように、いわば「廃人同然」の姿で出てこなくてよかった。あとはお勤めをして償い、薬と無縁の生活の場にしばらく置いて、治療するしかない。わたしも「モーニングムーン」が18番なのになぁ。(;´Д`A ```
相撲は土俵入りで「まさかの行司が先導を忘れて装束脱いじゃってくつろいだ」だの、飛鳥が「ヤク&飛鳥」で捕まったり。
初犯なら、何年か猶予して復帰し(二度とやらない、こんど捕まったら最後という崖っぷちではあるが)、今でも活躍している人もいる一方、飛鳥は、一度「わたしはやっていない」と否定しただけに、再犯みたいなもの。復帰はタシーロなみに厳しい。
というか、タシーロのように、いわば「廃人同然」の姿で出てこなくてよかった。あとはお勤めをして償い、薬と無縁の生活の場にしばらく置いて、治療するしかない。わたしも「モーニングムーン」が18番なのになぁ。(;´Д`A ```
さて、元大関魁傑の先代放駒理事長が急逝した。好きなゴルフを長男と孫に付き添われてやっている際中倒れ、帰らぬ人になった。
生い立ちはこちらをクリック
しこ名の由来は。。。
当初は本名の西森(番付では森は木冠に冫人で書かれた)を名乗っていたが、十両に昇進すると花錦という四股名に改名した。しかし本人は、花錦は自分には合わないとして嫌っていた。後に改名することになった際に女将さんによって魁傑と命名されると(実際には、本人の昼寝中に新しい四股名を女将から複数提示され、寝ぼけながらも別の候補を選んだが、昼寝から覚めると魁傑に決まっていた[1])。最初は戸惑ったものの、これが昔中国で活躍した武将の名であることを知って大いに気に入ったと言う。
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しこ名の由来は。。。
当初は本名の西森(番付では森は木冠に冫人で書かれた)を名乗っていたが、十両に昇進すると花錦という四股名に改名した。しかし本人は、花錦は自分には合わないとして嫌っていた。後に改名することになった際に女将さんによって魁傑と命名されると(実際には、本人の昼寝中に新しい四股名を女将から複数提示され、寝ぼけながらも別の候補を選んだが、昼寝から覚めると魁傑に決まっていた[1])。最初は戸惑ったものの、これが昔中国で活躍した武将の名であることを知って大いに気に入ったと言う。
度重なる負傷により、好不調の波が激しかった。特に左肘の状態がひどく、このために大関から2度陥落したがその負傷さえなければ横綱になっていたという評価は現在でもある。「休場は負けだ」との名言を残し(「試合放棄だ」と言ったこともある)、不調で黒星が続いても決して休まず戦う姿はファンの人気を集め、誠実な土俵態度とあいまって力士の手本と評され名大関と呼ばれた。また腰が高いという欠点もあって、相撲解説者・玉の海梅吉は、四股名をもじって「魁傑は未解決だね」と言っていた。どうやら強弱の差が激しく、強みと弱みが表裏一体であるといった意味だったらしい。当時の子供の間では、その四股名から「かい(痒い)けつ」とも言われた。また、ある時、風呂場に石鹸がなかったため、ママレモンで身体を洗い、股間が爛れたことがある。同郷である元首相の佐藤栄作が、現役時代の後援会長を務めていた。
ママレモンって…(;´Д`A ```
ママレモンって…(;´Д`A ```
兎に角まじめ。巡業部長中に「野球賭博問題」が発覚。力士を理論を用いるというより学部主任のようにわかりやすく注意叱咤していましたね。
理事長時代にあの「八百長問題」が。前代未聞の
理事長時代にあの「八百長問題」が。前代未聞の
興行中止、順席を決めるための無料での「技量審査場所」開催。暴力団との根絶、親方株の一括管理
など、いまの公益財団法人の基礎を作っていました。 定年間際は、親方衆から冷ややかに見られていましたが、最後まで信念を貫き、この人だからここまでできたと思います。
一番弟子の大乃国の芝田山親方も、一本筋で同じ柔道経験者。非常に気落ちしていました。
ちなみに私は北の湖ファンでした
一番弟子の大乃国の芝田山親方も、一本筋で同じ柔道経験者。非常に気落ちしていました。
ちなみに私は北の湖ファンでした
取組では私のベスト取組3に入る、「昭和53年3月場所7日目、対旭圀」。
印象に残る取組として、引退する前年の1978年3月場所7日目、大関旭國との対戦で水入り、再水入りでも勝負がつかず、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖敏満 - 青葉山弘年戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前に掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番がある。ちなみに魁傑はこの一番の前日の6日目、大関若三杉とも水入りの相撲を取っており(この時は敗戦)、旭國も膵臓炎で場所前に退院したばかりであった。
取組映像はこちら。
印象に残る取組として、引退する前年の1978年3月場所7日目、大関旭國との対戦で水入り、再水入りでも勝負がつかず、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖敏満 - 青葉山弘年戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前に掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番がある。ちなみに魁傑はこの一番の前日の6日目、大関若三杉とも水入りの相撲を取っており(この時は敗戦)、旭國も膵臓炎で場所前に退院したばかりであった。
取組映像はこちら。