夜だるま昆布長の、カウントギリギリ!(;゚д゚)(つд⊂)

Yahoo!ブログより移籍いたしました、夜だるま昆布長と申します。自身障がい者で、施設に通所しながら、日々アビリンピックの練習や、個人新聞を製作しています。Officeむいんぐ代表。林家木久扇名付け人です。山形県鶴岡市。

ありがとう、木村正直さんと、なぜか面白い行司は惜しいのが多い

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 今日は元大鵬の告別式ですが、それと同時に三役格行司、4代木村正直さんが、肝細胞がんの全身転移により、59歳でなくなられました。
 あと少しで立行司というというところでしたが、がん再発の危険と隣りあわせながら、先場所途中まで、おなかに水がたまり、全身がむくんでいたにもかかわらず、さばいていたのには驚かされますな。

 師匠は3代木村正直。のちの24代式守伊之助です。ちょうど北の湖・輪島のころ。正直時代には、投げの打ち合いで際どい取組になると、土俵に顔がつくほどに屈み込んで勝負の判定をすることがあり、その様がプロレスのレフェリーがカウントする所作に似ていたので、「プロレス行司」と呼ばれていました。

 制限時間いっぱいの「待ったなし!」の掛け声をかける時、仕切り線まで割って出て、前屈みで軍配を返していたのが印象的です。このへんの所作がよく煮ていますが、師匠よりもその後が派手な上、

ながったーらがった、ながったらーらがったぁ!

の声が良く通り、ツイッターでは「正直うるさい」のたぐまでが。
 立ち合い後は「はっけよい」を言わず、「のこったのこったのこったのこったのこっ!」(最後の「た」が小さい)という独特の掛け声だった。

卒寿を超えた今も健在で、岡山県に在住い。師匠より先に逝くのは、さぞつらいことと。

 さて、おいらが覚えている限りでは、現役のままでなくなられた十両以上の行司さんは4人。
木村筆之助
木村筆之助(きむらふでのすけ、1924年1月17日-1984年4月26日)は大相撲の元幕内格行司。伊勢ノ海部屋所属。長野県出身。本名は田畑啓。
 木村今朝三(2代)時代の1970年3月場所12日目、前頭5枚目大雪-同3枚目若二瀬戦で大雪が若二瀬を下手投げで倒したとき、今朝三は大雪の四股名を忘れ、白房下勝負審判に尋ねてようやく勝ち名乗りを上げたり、同年7月場所12日目、前頭8枚目大雄-同5枚目黒姫山(現武隈)戦において立ち合わせず謹慎処分になった。他にも筆之助改名後の1975年1月場所2日目、前頭10枚目富士櫻(現中村)-同7枚目栃東(先代玉ノ井)戦で富士櫻が栃東を押し出した際転倒して脳震盪を起こしたため立ち上がれなくなり、控えの式守与太夫が代わって勝ち名乗りを上げる一幕があった。
 晩年時代の1980年5月場所千秋楽、前頭4枚目蔵玉錦(現錦島)-同6枚目鳳凰戦で筆之助は蔵玉錦と一緒に土俵下に転落、勝敗を確認し軍配を挙げることが出来ず、審判委員に聞いてようやく鳳凰に勝ち名乗りを上げた。さらに、同年9月場所4日目、前頭11枚目玉ノ富士(現片男波)-同6枚目荒勢戦では勝負が決まる前に土俵上で転倒するというハプニングがあった。糖尿病が持病で、その悪化がもとで力士に接触・転倒することが相次いだため同場所中に休場、その後亡くなるまで番付に名を残したものの土俵に上がることはなかった。60歳
式守伊三郎
2代式守伊三郎(しきもりいさぶろう、1925年2月13日 - 1987年10月15日)は大相撲の元三役格行司である。時津風部屋所属。

北海道出身。本名:松井利雄。

38歳の若さで三役格に昇格したものの行司の抜擢制度の煽りを食い、実に24年間(144場所)も三役格行司を務め、立行司に届くことなく現役中に死去した(ちなみに抜擢制度の恩恵を受けた後輩の4代木村玉治郎(のち27代木村庄之助)は三役格を38場所務め立行司に昇格)。そのため「永遠の三役」という代名詞がつけられたのも皮肉である。

大関貴ノ花の取組を数多く裁いた。また1975年5月場所8日目、天覧相撲では屈指の名取組、前頭筆頭富士櫻-小結麒麟児(現北陣)戦を裁いた。

肥満ではなかったが長身で体格がよく、実況のNHKアナウンサーから「巨漢の行司」と表現されることもあり、「はいけよーい!あーのぉーったのぉーったのぉーった」という独特の野太い掛け声が印象に残る行司であった。

1987年10月15日、脳梗塞のため死去。62歳没。彼が現役中に亡くなった為か、以後この名跡は空いたままとなっている。

現在幕内格行司の木村元基は、彼の最後の弟子である。 007シリーズ 『Youonlylive twice(邦題:007は二度死ぬ)』行司役で、琴櫻-富士錦の取組を裁く。

式守与太夫10代
10代式守与太夫(しきもりよだゆう、1925年12月4日-1983年5月25日)は大相撲の元三役格行司。立浪部屋所属。
 
長野県出身。本名は関口清三郎。

ヒゲの式守伊之助 (19代) の弟子。

 所作は兄弟子の木村庄之助 (27代) と似ているが、特にかけ声が非常に独特で、少なくとも「のこったのこった…」と言っているようには聞こえない。漫画家のやくみつるは、彼のかけ声は「まちばり、まちばり、わったった~」であった、と表現している。ほかにも、「はっけ、やんざい!わんざい!まんざい!わったった~!」という説や、「はっけ!のこったり!のこったり!」「ワッショイ!ワッショイ!ワッショイ!ワッショイ!ドゴトットット~!」という説もある。

ちなみに夜だるま君は、「はっちょいやっちょいわっちょいわっちょいなっちょいやったったぁ!」ときこえていた。


式守清三郎時代の1961年5月場所4日目、前頭13枚目佐田の山十両筆頭清ノ森戦を裁いた。この勝負は清ノ森が肩透かしで佐田の山を破ったが、この場所の幕内最高優勝佐田の山(12勝3敗)で、十両優勝は清ノ森(同)。幕内最高優勝力士が十両優勝力士に敗れるという、結果的には異例な一番になった。

1980年5月場所8日目、天覧相撲の前頭5枚目魁輝(現友綱)ー同筆頭鷲羽山(現出羽海)戦。土俵際で回り込んだ鷲羽山の足が与太夫の右足の草履の上に乗り、与太夫が転倒。なんとか起き上がったが、草履だけが残って足袋のままで裁き続けたというエピソードがある。

当時、式守清三郎を名乗っていた1966年11月から1982年9月まで番付書き(戦後3人目)を担当し能筆としても知られた。

1983年5月25日に現役のまま逝去。57歳没。

?H1>ちなみに式守与太夫さんと、式守伊三郎さんのVTRは正月に放送された「マツコ・有吉、怒り新党SP。「土俵際の魔術師、栃赤城」 の特集で確認できました。