酒田大火(さかたたいか)とは、1976年10月29日に山形県酒田市で発生した大火を指す。この火災で酒田市内中心部の商店街、約22.5haが焼失した。
市の中心部を含め1767棟が焼失し、被害総額は約405億円にも上る。死者1名、被災者約3300名。 なおこの火災による死者は、当時の酒田地区消防組合消防長で、火災発生2日後に火元とされる映画館で発見された。
市の中心部を含め1767棟が焼失し、被害総額は約405億円にも上る。死者1名、被災者約3300名。 なおこの火災による死者は、当時の酒田地区消防組合消防長で、火災発生2日後に火元とされる映画館で発見された。
証言によると火災発生の知らせを自宅で受け、通りがかりの車に便乗して現場に到着後、人命検索のため進入し煙に巻かれたものとされる。
山形地方法務局酒田支局にも延焼危険が生じたため、数万冊に及ぶ各種登記簿の搬出が計画され、陸上自衛隊隊員30名が派遣されたが、時間的物理的に搬出不可能と判断された。そのため酒田支局長は独断で、最悪の場合事務所棟を破壊し登記簿等の保管庫を守ることを決意し、伝手を頼ってショベルカーを手配し、陸自隊員も破壊準備にあたった。 その後山形地方法務局長とも電話連絡が取れ、局長からも登記簿防衛が最優先、最悪の場合庁舎破壊を許可する旨口頭での了解を得たが、火の向きが変わり延焼は免れた。
復興活動鎮火した翌日の10月31日早朝から、酒田市役所において、山形県・庄内支庁建設部・酒田市都市計画課・建設省などにより「火災復興都市計画」の作業が開始された。この作業は大変スピーディーに行なわれ、翌日の11月1日には「防災都市づくりの計画概要」が完成した。この復興計画は「防災都市の建設」を柱とし、「将来交通量に対応した幹線道路の整備」「近代的な魅力ある商店街の形成」「住宅地の生活環境の改善整備」「商店街と住宅街の有機的な結びつけ」を掲げていた。 特に商店街の復興に合わせた災害に対する整備と緑地化が積極的に行なわれ、わずか2年半後の1979年には復興式典が行なわれている。 この復興作業のさい陸上自衛隊が災害派遣として被災地区の残骸撤去を実施(道路確保として)。 通常は行われないが突然の火災ですべてを失った被災者のために法律解釈を変更して実施した。
また、この短期間での都市復興は、1995年に発生した阪神・淡路大震災において参考とされた。 ウイキペティアより
当時は山形には知事以上の権力、服部天皇(あだ名)、板垣知事、金沢山形市長と三本柱が良くも悪くもはばかり(コンビニやチェーン店、テレビ局の新規開局を拒むなどかたくなな姿勢の一方、農業重視でもあり、映画館を多数誘致した)、これらと国に太いパイプが合ったおかげとしている。
ただ今回は広範囲なことも、なかなか容易でないことの一つではあると思う。
逆に阪神大震災などは、復興を優先してしまい、孤独死などが相次いだことから、街単位での疎開が、現在の主流になっている。
ただ今回は広範囲なことも、なかなか容易でないことの一つではあると思う。
逆に阪神大震災などは、復興を優先してしまい、孤独死などが相次いだことから、街単位での疎開が、現在の主流になっている。
原発も現在進行形で、自殺者も出たほど。どういったことにしろ、復興の青写真も着手してほしい。